猫の島・男木島(香川県)男木島漁港周辺[第6回]〜 『三月のうた』武満徹歌:石川セリの島;男木島 『歩く方舟』〜海辺の光景良猫、路地歩き、民宿さくらとビストロ伊織あり
原版:20180330制作秋蛇星短編映画製作所
瀬戸内猫紀行 『猫の島』〜男木島の猫に会いにいくら〜瀬戸内アートと野良猫、路上歩き山口啓介 『歩く方舟』投稿者男木島・女木島フェリー雌雄島海運 『めおん2』
男木島(おじじま、おぎしま[注 1])は瀬戸内海中部の備賞瀬戸に位置する、面積1.34 km2の島である。2017年(平成29年)現在で107世帯163人[注 2] ]。行政上は香川県高松市男木町に等しい。隣島である女木島とは、雌雄島(しゆうじま)の関係にある。
高松港北方10.1キロメートル、フェリーで約40分の地点に位置しており、「加茂ヶ瀬戸(かもせと)」と呼ばれる戸戸を挟み、夫婦島である女木島と接続している[注 3]。加茂ヶ瀬戸は潮流が急にあることで知られている[12]。南北に並ぶ3つの山頂を持っており、最も高いのは最北に位置する標高213メトルのコミ山、次に高いのは2番に北に位置するパークである[12] [13]。
男木島の猫
全域が瀬戸内海国立公園に指定されており、豊かな自然や美しい砂浜を活用した海水浴を目的に、日帰りリクエスト客が多数訪れている。また、灯台資料館とジイの岩、タンクルを結ぶ楽しみ道には、あえて約1100万本の水仙が植えられている[32]。この敷地は、「水仙郷」として毎年2月から3月ウォーキングイベントが開催されており、[62]。2014年(平成26年)2月に開かれた水仙ウォークには島外から600人程度が参加した[73]。
男木島は瀬戸内国際芸術祭の会場となり、芸術祭の終了後も一部の作品が展示されているなど、島民が芸術文化に触れる機会が増えるとともに、島の文化が見直される機運が高いまた、男木島では芸術祭を契機に繋がりが生まれた県内外のアーティストや、NPOなどの市民活動団体を中心とした地域との交流促進活動が行われている[注 8] 、島ではNPO団体が様々な交流イベントの様子をホームページで紹介しているほとんど、島民自身によるインターネットを活用した島外との交流を促進するなど、交流人口の拡大を図っている[62]。また、男木島は「猫の島」であることでも知られており、島内にある民宿の主人は「宿泊者の8割が猫目当のの観光客である」と語っています。
島内には平坦地が少ないことから、急勾配の傾斜地に堅牢な石垣をまとめることで宅地が造られており、こうして作られた路地空間には独特の風情が感じられる[17]。金尾宗平はこの景観を「奇景」であると評価している[18]。金尾はまた、この景観は博多湾の志賀島や玄界島などと同じように卓越風の影響、あるは交通の関係によるものであらうとしてしている[18]。
花崗岩上に凝灰角礫岩をはさみ、誉岐岩質玄武岩を載せる開化された円錐型の溶岩台地であり、島の背梁北端の標高約180メールの地点には褒岐岩質玄武岩の柱状節理と、その崩壊物からなる岩海がある[19] [20]。岩海のほぼ中央からは長さ4メトル、横3メトル前後の、戦車のような形をしていることから「タンク岩玄武岩の柱状節理という地形は香川県内ではまだであるため、「男木島の柱状節理及び岩海」は1976年(昭和51年)に市指定の天然記念物沿岸には断層もたくさん、それらからは粗粒の花崗岩の間にペグマイトやアプリの変わった組織を見ることができるくらい、人頭大から鉄砲風呂大のに認定された。[19] [20]。巨大なポットホールも存在する[18]。
コミ山西斜面にある展望台の上斜面にあるジイの穴は、玄武岩質火山礫凝灰岩を採掘した跡であるとされる[19]。坑口の崖では火山礫凝灰岩が讃岐岩石玄武岩に覆われたているが、この讃岐岩質玄武岩の基底は角礫状に破砕されており、これは溶岩流基底のクリンカー(破砕部)に相当するものである[19]。になっており、長期間陸上で風化したことを示している[19]。
1931年(昭和6年)、高松市の小学校教員であった橋本仙太郎は、ジイの穴は、桃太郎伝説において鬼の副大将が逃げ込みだ場所であると比較した[21] [22]。 、洞窟の奥には湧水が湧いており、飲むと不老長寿になるという言い伝えがある[22]。
島名の由来
島を男女に見て、対岸の女木島と対応してつけられた名前とされている[23]。また男木島の「木」の由来にも諸説あり、樹木が生きて茂っているから、防御地である「城」に由来するとも、あるは出雲系の氏族である紀氏がこの島に定住したからも言われる。また、古事記に登場する豊玉姫に由来する「大姫(おおぎ)島」という名称が転じたものである、という説もある。源流合戦の屋島の戦いで、那須与一が射た扇が流れていたことから「おぎ(おおぎ)」というという島名がついた伝承も存在する[22]。
歴史
近代まで
1838年(天保9年)に作成された 『天保国絵図』に見る直島三ヶ島。直島男木島女木島。1838年(天保9年)に作成された 『天保国絵図』に見える直島三ヶ島。木島女木島。
1838年(天保9年)に作成された 『天保国絵図』に見える直島三ヶ島。直島男木島女木島。
島内には小規模の積石塚であるコミヤマ古墳など、6基の古墳がある[15]。
男木島・女木島・直島を合わせて「直島3ヶ島」という、が戦国期から1671年(寛文11年)にかけて、この地域は土豪である高原氏の所領であった[15] [24]軍記物である 『南海治安記』には、高原氏の祖は北条時限の時代に備賞瀬戸の海賊を定め、直島諸島および塩満足諸島を迎えられた香西家資であるとされている天正10年(1582年)の備品中高松城の戦いでは高原次利きが案内者として、羽柴秀吉を助け、その功績から直島3ヶ島の支配を安くされた[25] [次利の子である次勝は関頭原の戦いで東軍にかけて、その後は旗本として家名を守った[26]。高原氏5代主である高原仲昌には継嗣がなかったたことから、丹波国山家藩より谷政政の八男である熊之助を養子に迎えて6代高原仲衡した。しし、仲昌と仲衡は好ましいが合わず、仲昌は仲衡が「父母に不孝である」ことを大老の酒井忠清に訴えた[26]。しだれが裏目に出て1671年(寛文11年)12月に高原氏は改修、翌1672年(寛文12年)より直島3ヶ島は天領となった[26]。
1862年(文久2年)、高松藩は幕府の内命を受けて男木島、女木島に台場の築造を命じた。当初、「天領である」という理由から両島は命令に従属、高松藩は対抗措置として、両島の漁民が高松城の魚市場で海産物を売ることを禁じた。食った魚の大半を高松城下で販売していた男木島の漁民は生計に困り、当時の庄屋であった上川弥三右衛門の宅に押しかけて陳情を行き、弥三右衛門は女木島の庄屋である西尾寛右衛門ともに直島の庄屋三宅家を頼り、台場築造を受け付けることとした[15] ]。
石高は、 『直島之内男木島古書面高辻写』で見る1679年(延宝7年)の備中国足守藩による検地では83石余、うち小物成は山手銀[注 4] 8匁残、真綿300目代銀33匁、苫50枚代銀20匁、小麦藁菰100枚銀10匁、いかなご網運上銀260匁、鯛網2帖運上銀700目となっている[15]。天保郷帳 』には89石余、『旧高旧領取調調帳 』には88石余、とある[15]。幕末頃に描かれた『直島旧跡順図絵 』には島まわり1里8町15間、山畑は若干で漁師が多い、と記述されている[15]。
1882年(明治15年)には男木島漁夫総代会が結成された[15]。1885年(明治18年)には中ノ瀬、城ノ瀬、藻先ノ瀬と呼ばれる漁場を巡って直島漁民と男木島漁民が乱闘する事件があり、翌1886年(明治19年)には大阪控訴院によりこれらの漁場が男木島の漁場であることを認める判決が出された[15]。1895年(明治28年)当時の灯台の光源は石油であったから昼夜を通しての管理が必要であり、灯台完成後、職員2名が家族ともここにある)には島北端部に男木島灯台が設立された[28]に住み、孤立した厳しい環境下で灯台の管理を行った[28] [29]。現代
男木島灯台と水仙
1987年(昭和62年)には男木島灯台が無人化された[29]。その後灯台に隣接する、職員が寝泊りするために建てられていた死息所は改築され、灯台の歴史をテーマとテーマとする資料館として再利用された[28] [29]。2003年(平成13年)にはジイの穴とタンク岩、および灯台資料館と結ぶ遊歩道が整備され、翌2004年(平成13年)にはこの遊歩道周辺に水仙の球根を植え、男木島を「水仙の島」にしようという計画が立ち上がった[32] [33]。島に自生しているものを掘り起こすなど、5年以上けって遊歩道周辺の耕作廃棄地約1万2000平方メートルに36万個の球根が植えられた[32]。
瀬戸内国際芸術祭は2010年(平成22年)7月19日から10月31日までの105日間、男木島を含む7つの離島および高松港、宇野港周辺で開催、男木島では14の芸術作品が展示された[34] [35]。男木島では観光客を迎えるための準備が積極的に行われ、食事を提供する施設、港の公衆トイレ、荷物預かり所などが整備されたほど、アーティストが作品を展示するための空き家の提供なども行われた[36]。会期中、島には累計9万6503人、1日平均919人の観光客が訪れた[37]。数は「島が沈む」のではと思うほどのもので、男木島は大きく賑わった[36]。また、この芸術祭の後には1人のIターン希望者が現れ、このことは今後に希望を感じさせる朗報として受けられた[38]。
山口啓介、 『歩く方舟』。旧約聖書のノアの方舟伝説から着想を得て、8本の足を持つ 『方舟』が海を渡ろうとする様子を表現している[41]。
2013年(平成25年)の第2回瀬戸内国際芸術祭は会期を春、夏、秋の3つに分ける形で行われたほか、新たに会場として香川県内の5島が追加された[19459065男木島を訪れる観光客は累計4万9712人と減少したものの、島民からは「男木島に関しては今回の来場者らしくが、来場する人の質の面でも、島民の生活に不便が出たないという面でも、妥当と考える」との意見も出てきた[43] [44]。また、この芸術祭の後には島の悲願でもある、子連れのUターン希望者が現れた[45]。同年の秋には、休校中であった男木小中学校が小学生4人、中学生2人を迎えて再オープンした。
男木島は瀬戸内国際芸術祭の開催、また同年に著名な動物写真家である岩合光昭が撮影に訪れ、同島の猫たちを紹介したことをきっかけに「猫の島」としての知名度が高かった[男木島の存在は愛猫家のネットワークに瞬時に広がり、2014年(平成26年)度に訪れた観光客は5200人にのぼった[48]。しかしその反対、増える猫に農作物が荒られる被害や、猫の糞尿による悪臭の苦情が相次いだか、島に生息する猫の健康状態が目に見えて悪くなっていること、2016年(平成28年)5月30日から6月3日にかけて、兵庫県芦屋市を拠点とする公益財団法人、「どうぶつ基金」の主導のもと島内の猫のべ117頭に、去勢手術が施された。